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社会が共通資本として保有する財

第一に、教育は福祉や医療がそうであるように、社会のすべての人にとって幸福追求上なくてはならない基本的な財・サービスであり、特定の属性を有する人、例えば経済的に余裕のある人や、高い能力や才能のある人に占有されてよいものではない。社会は学校教育、社会教育ばかりでなく、家庭教育という形でも教育の機会を財として保有している。

それら様々な場での教育財を、誰に、どれだけ分配するのが社会にとって公正か。各個人、各家庭が享受している教育財の格差は、学校を通じて供給される教育財によって是正されるべきか。

社会全体の生産効率性を犠牲にしても、格差の是正は目指されるべきか、などといった問題が教育の分配論として検討されることになる。

教育は、個人の側からは権利として請求される。しかし社会の側からすれば、教育は正当に分配されるべき共有財にはかならない。その正当に分配されるべき教育財は、これまで、国家の制度を通じて供給される学校教育を中心に、「平等な教育機会の保障」という原則のもとで、平等分配の対象とされてきた。教育機会は、「すべての人に平等な教育機会を」というスローガンに表わされているように、平等に保障されることが正当な分配であるという平等主義の理念のもとで、20世紀の全般を通じて、初めは初等教育の機会として、次には中等教育の機会として実現され、やがて学校教育の枠を越えて生涯教育の機会としても敷行していっている。OECDの教育大臣会議(一九九六年)は、「すべての人のために生涯学習の実現を図ること」を今後の教育改革の目標として掲げている。このように教育は、何より第一に、平等な分配が達成されるべき財の事例として分配論の対象となってきている。

第二に、財の分配論にたいする教育の関わりは、社会の財の分配に、教育が公正さを見極める視点として組み込まれている、という側面にもみられる。Ⅱ部「分配論の諸相と能力開発」で詳述するように、ジョン・ロールズの『正義論』(3ざ)の刊行以降、功利主義の立場、すなわち社会的総生産の最大化を帰結するような財の効率的な分配を求める功利主義の立場に、懐疑が広がった。この点で批判的なスタンスを共有する論者たち、特に平等理論、共同体理論、権原理論の論者たちは、いずれも、財の分配を受ける側の個別の特性、とりわけそれぞれの人の選好や能力や志望などの個別の特性を考慮しなければ、全体にとって公正な分配とはならない、と一致して主張している。さらにまた、それらの個別の特性自体が、形成されたもの/形成され得るものであることを重視して、どのような環境のもとでそれが形成されたのか、そのさい当人に責任がない仕方で形成されてはいないか、といった背後の諸関係を抜きには分配の公正さは語れない、ともみなされてきた。社会の共有財の分配は、もはや機械的な均一分配では公正性が確保されず、それぞれの人の個別の特性と、それの形成過程における被決定性を顧みた上で保障されるべきである、とする見方が有力になってきている。

このように教育は、何らかの原則に従って分配されるべき財という側面からだけではなく、他の様々な財の分配が公正になされていくための前提に関わる規定要因、という側面からも注目されてきている。この後者の側面を、財の分配論に内在する「教育の視点」と呼んでいくことにしよう。